子どもは、もちろん親からにしてみれば、自分の子どもです。ただ同時に自分の子どもでないとも言えます。子どもには自分の世界があり、これからの自分の人生があり。これを深く認識しなければならないと私たちは思っています。そして、キリストの教えでは、子どもは神様から与えられた賜物であり、神様に大事にされ、愛されているものとして受け止めるもの。こういう受け止め方から深い尊敬が生まれてくるはずです。子どもを自分の好きなようにできるはずがない。子どもを本当に、いいかえれば、子ども自身の内に秘められている無数の賜物があると思っています。子どもの内に秘められている無数の力、可能性を見つめながらその成長を支えていきたいと考えています。
子どもだけでなく人間に対しても人は色々な側面があります。やはり健康な子として育って欲しいと願います。だからよく遊んで、走ってとか、感受性、知的な側面がいっぱいあります。そして宗教心というもの、心の世界、これも大事だと思います。人間の人生を支える土台になります。私たちはカトリック(キリストの教え)中で、これは一つの特徴だろうと思います。もちろん宗教心は正しく捉える必要があり、何か普段あの人は宗教に凝っているということではありません。それはよく言われている心の世界を大事にしているということです。人間の1番深いところは、目に見えないし、手で触れることができません。正しく捉えて、それを育てていく。人間の円満な成長を助けるものだと思います。祈ること、感謝すること、人々と関わること。それを私たちはとても大事だと思っています。
教育者としてまた保護者として自分に与えられた責任を放棄することではありません 。ただ、子どもの自主性を支える、子どもを信じること。ここで大事なの事は、忍耐です。私達は、なんとなく、すぐ結果を求めがちで、結果を待っています。何を習ったか、その期待を持つのは当然だろうと思いますが、ただ、子どもには一人ひとりにそれなりのリズムがあります。それを尊重します。これは、簡単ではないとみなさんも感じていると思います。ただ、それと同時にやはりチャレンジする、問いかけていくということも子どもの成長のために大事なことだと思います。だから、信頼して信じて、そして本当にそのペースに合わせて、同時にチャレンジしていくというバランスが大事だと思います。
英語で「教育」は、educationという言葉ですが、これはラテン語のeducare という言葉から来ています。それは、人の心からものを引き出すという意味。種を実らせていくというような意味。だから、educationの概念は、外から知識を与える、ものを教えるというようなことは基本ではなく、教育の基本はラテン語のeducare、そこから引き出すこととか、そこからその種を実らせて花を咲かせていくということが基本だと言えます。それは、とても大事なことで、それは一人の人間、一人の子どもの中に、そういう神秘があるということです。だから、こういう眼差しで子ども達を見ながら、それを育てなければいけないと思っています。だから、教育者・親には静かな時が必要で、静かに子どもの存在の尊さを、偉大さを黙想する、本当に心にしみる形で。その一人ひとりの人間、一人ひとりの子どもの神秘というものをそのままを受け入れていく。本当に心から受け入れていくことは大事で、静かに物を見つめる、考える、味わう、それが大事だと思います。そして、子どものために祈る。子どものためだけではなく、子どもと関わる自分のためにも祈る。自分の祈りということはどういうことかというと、まず感謝です。本当に保護者が、先生が、子ども達に生かされているわけです。生まれる前から生かされています。それを感謝する、その感謝の心を深く味わえるということは、やはり感動を覚えるぐらいに味わうということが大事だと思います。それから知恵と勇気を願う。本当に子どもの心の中に蒔かれているその種を育てて咲かせて、知恵、あるいはその勇気ということを祈る。そして、謙虚な心を押しつけるのではなく、忍耐強く共に歩んでいくということが自分のために、まず感謝。そして、もちろん子どものために祈る。健康とか、神様の祝福を一人のために祈る。